厚生委員の出口です。折角ベースの見学ですので一寸ベースの歴史を勉強しましょう。  近代日本の礎を築いた偉人 「 小栗上野の介忠順 」 文久2年6月5日(1862/7/1)初めての勘定奉行勝手方に任ぜられた。 それからは江戸町奉行、歩兵奉行、再度の勘定奉行と任免を繰り返すことになる。 横須賀製鉄所の建設 国家の危機を肌で感じた忠順は、強い海軍を創設するためには自力で軍艦を建造することが必要と考え、 近代的造船所の建設を急ぐことになる。 どこから技術の導入を図るかがなかなか決まらない。と言うのは、最も頼りたいと考えていたアメリカが 1861年4月から始まった南北戦争でそのような余裕など全く無かったからである 又、幕府は造船主義か買船主義かで揺れ動いていた。 勝海舟達は軍艦を列強から購入することで近代的な海軍を創設すべきと考え、忠順の造船主義では500年掛かると激しく批判した。 実際、幕府が瓦解するまでに44隻の艦船を諸外国から購入し、その総額は(現在の340億円以上)にたっした。 勝海舟や財政的に不可能と考えている多くの幕閣の避難の中忠順はそれに臆することなく信念を持ち造船所の建設を強力に推進する。 このような動きを察知した在日フランス公使ロッシュは、三度目の勘定奉行になっていた忠順に具体案を提出した。 その背後には、親日的と言われたナポレオン三世のアジア政策があり、忠順も列強の中でフランスが一番好意的で誠意があることを評価し、 元治元年11月7日(1864/12/8)ロッシュに造船所建設を委ねる。11月26日忠順、栗本鋤雲(ジュウン)、ロッシュ達は、 長浦、横須賀を実地検分し横須賀を適地と判断した。 造船所の建設費は、4ヶ年連続で総額240万ドル(現在の240億円以上)であったが、フランスの借款で充当することにした。 ロッシュからの推薦を受けた横須賀製造所、所長に任命されたヴェルニーは、27才の極めて有能な青年であった。 年俸は破格の1万ドル(現在の1億円以上)であったが、それに見合う十分な働きをした。 ヴェルニーはフランスに戻り技術者の人選と機械類の購入を全て自分の目で選び抜いた。 横須賀製鉄所の建設が具体化すると、忠順に対する妨害と批判は熾烈を極めた。 イギリスが批判すると薩摩、長州などからも 反対の火の手があがった。 江戸城内でも口を極め罵倒する者も多く忠順は四面楚歌の中勘定奉行と軍隊奉行を罷免され無役となる。 しかし、4ヶ月後、忠順以外にこの大役を請け負う者もなく四度目の勘定奉行を拝命された。 慶応元年(1865/11/15)ついに、横須賀製鉄所の鍬入れ式がおこなわれた。忠順は横須賀製鉄所の経営に全力をそそいだ。 此のアジア最大の近代工場の運営には必然的に近代的なマネージメントが要求された。 組織、職務分掌、雇用規制、残業手当、社内教育、様式簿記 自然保護、流通機構など近代経営方法を忠順はヴェルニーとともに導入した。 そのため、忠順を「近代的マネージメントの父」と呼ぶ人もいる。   ヴェルニー達は(1868/10/22)までに錬鉄、製缶工場、宿舎、修船台、第1船渠(ドック)の建設、横須賀丸の建造、 日本初の耐火煉瓦の製造など造船所機能の多くを手がけ、その一部を完成させた。 此は、世界最新の造船所であり、アジア最大の近代工場であった。 当時の造船は今日の宇宙工学やロケット産業と同様で最先端の技術を駆使しなければ成り立たないものであった。 横須賀製鉄所はのちに横須賀海軍工廠、在日米海軍横須賀基地と名称を変え拡大発展してきた。 その頃、忠順は親友栗本鋤雲に次のような事を述べていた。 「絶対必要なドックを造るのだと言えば、他の無駄金を削る口実と なって良い事だ。横須賀製鉄所が出来てしまえば、 幕府が政権 を譲ったとしても、新しい政権に土蔵付きの売家として渡す事は名誉なこととして後世に残る」 横須賀製鉄所の鍬入れ式から91年目昭和31年(1956)日本はイギリスを抜き世界一の造船国になった。 忠順が勝海舟や他の幕府の言うとおり買船主義で船を買い続けたなら、又イギリスや薩摩、長州の強硬な反対に恐れをなし 尻込みして横須賀製鉄所の建設を断念していたら、日本は今日の様な工業、技術大国になっていなかったかもしれない。